2012年7月31日

ヤズドへ


5日間お世話になったMotaharehの家族にさよならを言い、Yazdへ向かうためバス停へ。
19時発のバスだったが結局出発したのは20時過ぎ。
運賃は16000トマン(約8ドル)。


ちょうど断食終了時刻(アザン)だったのでちょっとした食べ物が配られる。

隣に座った女の子も英語を話せたのでお互いの大学の話をしたり。
このバスは男女共用だったため、車内でもヒジャブを着用していなければならなかったのが私にはつらかった。

というより、たまにヒジャブが頭から落ちてしまったときの焦りが半端ない。

出発して2,3時間したところで、夜行バスにしたことを後悔した。マシュハド発のバスはすべて夜行だったので仕方ないのだが。
暗くてもなんとなく感じる広大な大地。これ日中か日没ころに見たらすごく綺麗だったんだろうなあと。

夜行バスは時間を無駄にしなくて済むし楽なのだけど、やっぱり陸路で旅する一番の魅力って車窓からの景色なんだよね。
それが暗くて何も見えなかったのが悔しい・・

バスの中は冷房ガンガン。長袖に長ズボンだったがそれでも寒い・・。自分の席の上のクーラーを切ろうとしたがどうも壊れているようで全く機能せず。
ライト付けて新聞を読もうとしたがライトも付かず。ということは寝るしかない。


8時間走り、朝の9時ようやくYazdのバスターミナルに到着。タクシーを捕まえホストの家へ。

今回のホストはSalmanLeila の若夫婦。
イタリア人のパッカーMariaもいて、2人同じ部屋に泊まらせてもらった。

2人はフリーの翻訳家。Salmanは兵役中でもあり、あと4ヶ月は軍に所属していなければならない。イランでの兵役期間は18 ヶ月。その間パスポートは没収される。


Dakhma、英語ではTower of Silenceと呼ばれる。沈黙の塔。


ゾロアスター教の死体置き場である。この宗教では火、水、空気、土などの自然を人間の死体で穢すことを禁止していて、死体を鳥に食べさせていた。



塔の上から見たヤズドの街。

街をぶらぶら歩いたり、バザールへ行ったり。ヤズドは砂漠の真ん中に位置する街。とにかく暑くて乾燥している。


食べ物を楽しみたくて旅をしている人にとってはラマダン中のイランはつらいだろう。

私はその国に入ったらその国の人たちに出来るだけ合わせたいというのが強くあって、ラマダンを実践してみたり、でもやっぱり途中で諦めたりしている。笑

ラマダン中は日没後から日の出までの時間食べたり飲んだりすることが許されるが、1日に全く食べられない人が数えきれないほど世界にいるのだと思うと、たった16時間の断食は強い意志さえあれば我慢できる。

ちなみにラマダンの時期は毎年異なる。月の動きに基づいているから。
冬になれば当然断食時間も短くなる。





ヤズドの街並みはとても綺麗だ。泥作りの建物が並んで街全体の色が統一されている。
ゆっくりと時間が流れる。砂漠の中のオアシス都市。


ここでもやっぱりカリヤン(シーシャ)を楽しむ^^

2012年7月27日

マシュハド


テヘランの次に大きな街、マシュハド。
アフガニスタンと比べて、お洒落にヒジャブを着飾る女の子が多い。人口は250万人。

電車やバスが走り、洒落たカフェもぽつぽつと見られる一方、聖地イマームレザが街の中心に構え、毎年各地から1500万人ものイスラム教徒が巡礼のためにこの街を訪れる。

日中は暑いが、夜は冷たい風が吹きむしろ寒い。


電車内の様子。女性専用者もある。中国の鉄道会社でした。

私のホストMotahareh27歳の大学院生。
14歳の弟と両親と3階建ての家で暮らしている。外国人を家に泊めるのは初めてだと言っていた。
家族はみな宗教熱心で暇さえあればコーランを開き黙読。
お父さんも英語を流暢に話す。

24日、Holy Shrine “Imam Reza”へ。
イスラム教徒でなくても入ることはできるが、女性はチャドル(頭から全身を覆う服)の着用が必須。
サンダルを履いていたのだけど、靴下を着用しろと言われ、近くの店に買いに行った。
カメラの持ち込みは禁止だが、携帯電話は持込み可。


ちょうどこの時、昼のお祈りの時間だったため、私も周りを真似しながらお祈りのふりしてみた。
女性と男性は場所が区切られている。皆同時に同じ方向を向き、同じ動きをする。

「宗教の力」に圧倒され、思わずツバを飲み込んでしまう。人々の祈りの言葉が聞こえてきそうだ。

25日、ラマダン5日目。大分慣れて、水を飲まなくても平気になった。
マシュハドの街はカラフルで芸術的。5,6年前に市長が変わってから街が綺麗になっていったのだと言う。
別ページに市内の写真を載せたのでご覧あれ^^

ホストファミリーとよく宗教について話した。日本はなぜ無宗教の人が多いのか、イスラムの文化について、神について、どう思うか、など色々と質問された。
日本の自殺率について話すと、「神の不在だ」と言う。
そんなこと考えたこともなかったけど、それも一理あるのかもしれない。


ホストの親戚の家で。もういいから休んでくださいなと言いたくなるほど、ずっともてなしてくれた。


・・・めっちゃかっこつけてくれたけど、セブンイレブン(笑)。


Motaharehとその友達と一緒に街の中の小さな山へ。このとき既に夜中1時だったがたくさんの人で賑わっている。ラマダン中は夜の活動時間が長い。



27日、この日はAkhlamadという山へ。7つの滝を探す旅。
ああ今頃フジロックではローゼズがWaterfall をグリーンステージで響かせているんだなあとか、ふと思ったり。

この国の自然がここまで美しいとは想像していなかった。今にも飲み込まれそうな迫力満点のごつごつした山々。この風景全体を抱きしめたくなるくらいに美しい。

ただ一つ、山に来る時にも肌を隠しヒジャブを着用していなければならないのは結構きつい。動きにくいし暑いし・・奥地に入ったらさすがにもう誰も来ないだろうと思いヒジャブは外してしまったが。
法律だから仕方ないけど山の中くらいTシャツで動き回りたいよね。



6つ目までの滝までは何の問題もなく行けたが、7つ目はかなりきつい。
プロのクライマーがいて彼が私たちをサポートしてくれたが、彼なしではかなりきつかっただろう。

岩しかない道を両手両足使って這い上る。
足が届かない場所がいくつもあって、服装も服装だから余計に足が開けない。でもやっぱり最後の滝はほかのどの滝よりも美しく神秘的で、山の奥の目立たない場所でひっそりと待っていてくれた。



水も透き通っていて冷たくおいしい。見るもの聞くもの感じるもの全てに感動できる。
言葉や写真じゃとても表現できないほど素晴らしい。

モスクや遺跡などの建物を見るのもいいが、正直写真で十分足りるものも多い。
でもこういった自然の美しさは写真を見ただけじゃ味わえない。自分の目で見て、自分の足で歩いて、そして初めて感じることができる。

もちろんこれは私なりの楽しみ。もし私が歴史博士とかだったら話は別だっただろうけど。

2012年7月23日

アフガニスタンからイランへ

ついにイランへ!
イランはこの旅の中で一番楽しみにしていた国の一つ。歴史、文化、自然、人々、イランのすべてに魅了されていた。

640分頃、へラットをタクシーで出発。
運転手は若い兄さんだったが全く英語をしゃべれない。私の乏しいペルシア語、それから目で会話。言葉は通じないけどめちゃくちゃイケメン。最高な旅だ。

私は助席に、後ろには2人の子供を連れた家族。お父さんが「ヒデトシナカタ!シュンスケナカムラ!」とサッカー選手の名前を挙げてくる。

何か一つでも、こうやって日本のことを知ってくれているとなぜかとても嬉しくなるね。


寝不足だったのでとりあえず仮眠。
国境までの道はほぼ何もなく、たまに古い住宅街がぽつぽつと。本当にここに人が住んでいるのかと疑ってしまうほど、 映画や物語の中で見るような泥と藁で造られた家々が並ぶ。

2時間ほど走りアフガン側国境へ。
最初の検問からは、くねくねとわざと通りにくく作られた道が数十メートル続き、出国局に辿り着く。両手の指紋をチェックされ、顔写真を撮られたあとパスポートチェック。

私のパスポートを見た一人の男性が眉間にしわを寄せる。別の人と何やらこそこそ話し、別室へ。なかなか戻ってこないので、別のタクシー使ったら?と職員に言われたが、あのイケメン運転手とイランまで行きたい!笑

まさか出国させてもらえないのかとヒヤヒヤしたが、「ミス・スズキ」と名前を呼ばれパスポートを無事返却してもらえた。
体中に冷や汗かいて、心臓はバクバクだったね。

出国時はなんと荷物チェック何もなし。いいの?ほんとにチェックしなくていいの?と言いたくなったくらいだ。

国境にあるアーチに“God Bless You”との文字が。ありがとう、アフガニスタン!卒業したら絶対帰ってくるよ。

少し車を走らせ、今度は入国局へ。 黒・赤・緑のアフガン国旗から、今度は緑・白・赤のイランの国旗に。
入国局に入った途端もう私の興奮は止まらない!
ついに念願のイラン!!!どんだけ待ち焦がれたことか!

ここでも荷物チェックなし。税関申告もなし。拍子抜けしてしまったわ。入国審査には若干時間がかかったが、職業や父親の名前などを聞かれたくらい。

と思ったら入国後5分ほど車を走らせたところで荷物チェック。
バックパックの中身は全て出された。なぜか要チェックとして別室に持って行かれたのが、ウズベキスタンで買った鳥の形のハサミと、アフガニスタンで拾った破壊されたモスクの破片。

出入国にかかった時間は2時間ほど。アフガニスタンとイランの時差は1時間。

ウズベキスタン、アフガニスタン、イラン、この3カ国ほぼ経度が変わらないのに、ウズベクがGMT+5、アフガンがGMT+4:30、イランがGMT+3:30

アフガニスタンの最西端はウズベクの最西端より東にあるのにもかかわらず、アフガンで時間が30分戻るのがどうしても理解できない。
ちなみにアフガン南東部に国境を接するパキスタンはGMT+5。これもまたおかしい。
時差ってどういう基準で決めているのだろう。


イランに入ると、あらゆる場所でこの写真を目にします。
彼の名はホメイニー。彼については後の記事にて詳しく書こうかと。

4,5時間ほど走り、マシュハドへ。へラートからここまで28ドル。USドルも使用可能です。運転手に頼んでホストの家まで送ってもらった。ありがとうイケメン!Tashakur!!

アフガニスタン最終日に


Heratもまた歴史の詰まった良い場所です。
ホテルの名前はマルコポーロ。さっき発覚したのだけど、カブールで一緒にお昼ご飯食べた財務省のZahirさんのいとこが隣の部屋に。こんなこともよくあるのがアフガニスタン。

彼は2人奥さんがいて、子供は全部で14人!私の親戚全員集めてもそんないないぞ・・

ここは風がとにかく強い。ヒジャブが風で巻かれてうっかり首が見えそうになるからヒヤヒヤする。気温はカブールよりも高いが暑くていられないほどではない。ただラマダン中なので喉がカラカラに渇いて辛い・・

今日でラマダン3日目。だいぶ慣れてきました。何も飲めないのはまだ辛いと感じるが・・。
初日はほぼ死んでいたけど、今は日中もだいぶ元気で居られる。

ラマダンは健康にもいいと言われているらしい

分かってはいたが、アフガニスタンには「なんちゃってムスリム」がほとんど居ない。
国民のほとんどが断食しているし、お祈りにも熱心だ。
宗教の力がとても強い。


アレクサンダー王の要塞。敵から守るため窓は全て小さく作られている。当時使われていたステージやアレクサンダー王の部屋がそのまま残されていたり。ああ、もっと世界史を勉強しておくべきでした・・(再び思う)


これは屋上から見たHeratの街。タイムマシンで過去に戻ったかのような気分になる。空飛ぶ絨毯に乗ったアラジンが飛んできそう。

そういえばHeratに来てから親にもアフガニスタンにいることを報告。
次イランということでだいぶ安心してくれているようだけど。


ドライブ中にパンク。まあ、よくあるよくある。

ここでよく聞かれる質問は”Do you like America?”.
私がよく聞くのは「9.11についてどう思うか」。
多くの人は、「9.11はアメリカにより企てられた。だがそれを施行したのはアルカイダだ」と言う。よくある陰謀論だねー。
車に「9.11 was an inside joke」(確か何かのバンドの曲名)というステッカーを貼っている人をたまに見かける。

明日はいよいよイランへ。この旅の中で最も楽しみにしていた国の一つ。
イランのネット規制はかなり厳しい。FacebookTwitterはもちろん、Gmailさえも規制されたと聞くがどうなんだか・・。という訳でしばらくネットから消えます。
1ヶ月くらいイランを旅する予定。私を待っていてくれている友達がたくさんいる。

新しい出会いもたくさんあるだろう。
では素敵な夏休みを!


2012年7月21日

ヘラート

 
19日、Heratへ向かうため空港へ。
この日はパキスタンの大統領がカブールを訪れていたこともあり道路はパニック状態。
車がちっとも進まない。

やっとのことで空港へ着くと、今度は厳重なセキュリティチェック。
ここでもまたバックパックの中身を全て出される。ついさっき頑張ってパッキングしたところなのに!!と言いたいとこだが仕方ない。

非常食のナッツ、薬、ハンドクリームまで細かくチェック。ナッツも一つ食べろと言われ、ハンドクリームも手に塗って安全であることを証明しなければならない。

ここでもなぜか正露丸にひっかかる。匂いをかぎ、これは何だ?と。お腹用の薬だと説明すると、飲んでみてくれと言ってくる。
「冗談じゃない。私のお腹は正常だ」

バックパックの中身出したら出したで元の場所に戻して欲しいものだ。
自分で場所決めてパッキングしているのに全て無駄だ。

セキュリティのおばちゃんも私がイライラしているのに気付いたのか「まあまあそう怒らないで」と頭を撫でてきた(笑)。
何よりショックなのがスイスナイフを没収されたこと。日本を出る前にお父さんからもらった大切なものだったのに。それにあれはかなりの必需品。ああ頼むから返してくれ。

その後も何度もセキュリティの人にお願いしたが返してもらえず。チケット発券して待ち合いロビーへ。待っても待っても搭乗の合図は来ない。
17時に離陸予定だったが、飛行機に乗れたのは18時過ぎ。強風のため飛行機が遅れているとアナウンスしていた。

あるNGOスタッフの人と話していると、少年が英語で話しかけてきた。英語を勉強しているから外国人と話したいのだと言っていた。
最初私を見たときアフガン人だと思った、とも言われた。格好がアフガン人とほぼ同じだから、と。

実はこれ、よく言われる・・。キルギスやウズベキスタンにいるときにもよく現地の人に間違われたけど、ここでも間違われるとは。

アフガニスタンには、ハザーラ人という民族がいて、モンゴル系の顔立ちなので日本人と間違えやすい。これはラッキーだ。現地の人と同化できれば、あまり目立たなくて済む。

1時間以上遅れてようやく離陸。そして1時間後ヘラートへ到着。
どうやら重要な人が亡くなったようで、彼の棺が別の飛行機から運ばれて何十人もの人がその周りに群がっていた。
友人が紹介してくれたShahiqに会い、彼の経営するホテル「マルコポーロ」へ。またラッキーなことに友達のホテルなので宿泊費はゼロらしい。

 別の友達Timoryが会いにきてくれ、ロビーでしばらく互いの話をした。彼はEtisalatというアフガニスタンで一番大きな通信会社で働く大学生。まだ24歳の学生だが既に社会人として働いている。

翌日(20日)断食月ラマダンが始まった。
断食といっても全く食べられない訳ではなく、日の出から日没まで(4時から20時)の間飲んだり食べたりするのが禁じられていて、20時から4時までは自由に食べたり飲んだりできる。

もちろん私はイスラム教徒ではないので断食する必要はないのだけど、一緒にいる友達はみな断食しているのに自分だけ食べたり飲んだりすることはさすがに出来ないよなあ。イスラム教の国にいる限り、ここの人たちにできるだけ合わせようと思う。

とりあえずチャレンジしてみます。

まず朝起きて一杯の水も飲めないことが辛い。冷蔵庫を開ければ水があるのに、飲めないこの辛さ。Timoryが迎えにきて一緒に街を観光しに行く。暑くて風も強く埃っぽい。
当然喉が渇くが、飲めない。自分のツバを何度も飲み込み、昼過ぎに帰宅。
少し寝不足だったので昼寝。寝ていれば空腹感を感じずに済むが、起きたときがまた辛いね。


綺麗な場所なのだが、このとき既に頭がくらくらしていた。
パワーが全くないのを感じた。みんな普通に生活できているのが信じられない。

夜8時、待ちに待った夕飯。ご飯を目の前にしたとき、食べ物を与えられたことに感謝せずには食べられなかった。「さて食うか」といった軽い気持ちで食べられない。宗教の断食ってこういうことだったんだな、とその時初めて分かった。神に感謝してるのね。

最初の3日を克服できれば大丈夫だと皆言うので明日も頑張ります。

2012年7月19日

カブール


 
Hafizとカブールの街を歩く。
日本車(トヨタ)ばかりが走る。マザリシャリフよりもだいぶ動きやすい。
道が広く、一つの道に人が集中していないから、歩きやすく写真も撮りやすい。

まずはHafizの母校(男子校)へ。カルザイ大統領もここ出身。

アフガニスタンではどの建物に入るときでも警察からのセキュリティチェックを受ける。
ここは男子校なので私が入るのはあまり好ましくないようだったが、チェックを通り中へ。

と、今度は写真を撮っているとまた誰かがやってくる。「許可なしに写真を撮るのは禁止」だと。校長室に行き、許可をもらう。

普段どこでも何でも写真を撮っている私だが、ここでは毎回写真を撮っていいか確認しなければならない。例えば政府機関やアメリカ大使館の付近ではカメラを出すことは禁じられている。
あちこちに隠しカメラがあり、警察もうろうろしているから下手な行動は出来ない。

その後財務省で働くZahirと会う。
なぜか、私がここアフガニスタンで会う人はみな階級の高いお偉いさんばかりだ。
私のようなただの学生のために時間を割いて会ってくれるのがありがたい。

ちなみにその次に会ったのがSupreme Auditという監査機関の副監査総監Mehdi。彼は私がビシュケクで会った友達の兄。彼とはカブール大学や外務省、それから女性省を訪問。
日本に女性省はないが、男女共同参画局がこれに当たるのだと思う。

女性省では技術政策関連の役職に就く女性、Mostafaviと面会。
彼女はカブール大学ジャーナリズム学部の教授でもある。建物の中は古く汚く、とても政府機関、しかも女性省とは思えない。
想像していたような建物とははるかに異なる。
机や椅子、壁や本棚もだいぶ古く、中は暗い。お金がない訳ではないのだが、だれも変えようとは思わないのだという。男女の差というのはこういう場所でも見られる。

アフガニスタンでの識字率は非常に低く、30%ほど。
私がここで会っている人たちはその30%の中の人たちだ。彼らには専属のドライバーがいて、どこへ行くにもVIP対応。

だが一方、街を歩いているときや車に乗って信号待ちをしているときでも、貧しい子供たちやブルカで全身を覆った女性がやってきては、手を差し出し「マネー!」とお金を求めてくる。

友人のHafizは「手も足もあるのに仕事を探そうとしない人にお金をあげる必要はない」と言っていた。確かにその通りかも知れない。
でも彼らはそもそも教育を受けられない低所得者だ。彼らに何が出来るのだろう。誰が彼らを雇いたいと思うだろうか。

アフガニスタンに来て、いろんな人の話を聞き何度も泣いている。
恐怖からではない。ここで出会う人たちにこれまでアフガニスタンで起こった本当のことを聞かされると、怒りや悔しさで涙が止まらなくなる。本当にここは不幸すぎる場所。
アフガニスタンはかつてインダス文明が栄え、歴史的にも重要な場所だ。それなのに今はどうだろう。戦争のイメージしかない。

出会う人ほとんどが言う。
2014年、アメリカ軍が撤退するまではこの状況は変わらない」。

アメリカ軍が撤退した後、市民同士の暴動や反乱はしばらく起きるだろう、でもその後きっと良くなる、と。本当か?

色んな立場の人と出会い違った考えを聞いているから、自分の中で整理するのがなかなか難しい。

Twitterで私のツイートを見たある日本人の記者の方から連絡をいただき、彼の友人Nazarと会うことが出来た。彼は実はタリバンのメンバー。
Afghan FoundationというNGOの理事であり、京都でカルザイ政権とタリバン両者の代表が出席する平和会議も実現。

タリバンはもともとイスラム教を基に、秩序回復のため立ち上げられた組織。
政府内にもタリバンはいるらしい。政府関係者のタリバンが人を殺せば、政府やメディアは「タリバンにより殺害された」と報じる。でも同時に、カルザイ政権の関係者でもあったりする。

ここまでくると何を信じたらいいか分からない。


 彼と子供たち。5人の息子と4人の娘がいる。皆温かく迎えてくれた。ありがとう。