2012年8月30日

コーカサス、そして黒海へ


マルシュルートカに乗り、北部のコーカサス山脈麓の街カズベギへ。
車内にはアメリカ人のおじいちゃんやイスラエル人のパッカーたちも。

3時間ほど山道を走り、着いたのは何もない小さなバス停。
まだ着いてないかと思っていたら「カズベギだ」と運転手に追い出された。マルシュルートカを下りた瞬間ゲストハウスの管理人らがやって来て、「うちに泊まらないか」と勧誘してくる。

山に囲まれた小さな街カズベギ。
ここまで何もないとは想像していなかったが、私としてはこっちの方が断然いい。

同じマルシュルートカにいたアメリカ人とイスラエル人はそれぞれゲストハウスへ向かい、私は一人山がよく見える何もない場所へ。

ホストファミリーを探す余裕がなかったので、この日はテント泊です。

コーカサスの山は迫力があり美しい。
登山から帰ってきたパッカーを何人か見て、また登りたい症候群に・・。

かし残念なことに今は登山用具など何も持っていない。グルジアがEUに加盟してからは、コーカサス山脈の最高峰エルブルス山がモンブランを抜いてヨーロッパ最高峰の山となった。
ここから見えるのはカズベク山(5033m)。


テントを張り、お金を換金するために銀行へ。こんな場所に本当に銀行があるのかと思ったら本当にあった。

その後はアメリカ人おじいちゃんと一緒にランチ。彼は一人で2年間世界を旅している。年は聞いていないが見た目的に60歳くらい。奥さんも子供もいないので自由に生きている。そんな老後もいいね。


18時くらいになると急に涼しくなる。
テントに戻り、上着を着て、近くのレストランへ。私のテントの周りに牛がやって来ては草をむしっていた。

家族で食事に来ていた彼らが一緒にグルジアワインで乾杯してくれた。
その後は男の子たちがやってきてグルジア音楽を披露。素敵な夜だった。

言葉にどう表現していいか。ホテルなんかにお金を払わなくたって、テント一つあればお金を払わずこうやって楽しむことができる。
もちろん、寝心地は決してよくないし、シャワーも浴びられないし、清潔なトイレを使える訳でもない。

でもそんな不自由さを忘れさせてくれる時間を村人たちがこうして与えてくれる。


23時頃就寝。夜の気温は5度。
途中イランで邪魔になったダウンジャケットを捨ててしまったことを後悔した。服を全て引っ張りだし体に巻いて寝る。

夜中2時か3時頃、大雨が降り出し、遠くの方で雷が鳴っていた。
私のテントはキルギスで900円くらいで買った安物。大丈夫かと心配になっていたとき、また近くのレストランの人たちがやってきて、「ほれ、雷だ、飲むぞ!」と。

全く意味が分からないが、とりあえず乗ることに。雷が響く中、ウオッカを飲みグルジアダンスを踊る。
彼らは私を休ませる気などない。結局朝6時まで飲んでました・・。

日が昇ってもまだ雨は止まず。強風の中テント撤収。
夜にはBatumiに行かなければならなかったのでマルシュルートカを捕まえ、まずはトビリシへ戻る。

ほとんど寝ていなかったので爆睡。2時間半ほどでトビリシに到着。
眠たい目を擦りながら今度はバトゥミ行きのマルシュルートカを探す。

すぐに出発するマルシュルートカを見つけたのでそのまま乗り込む。そしてまた爆睡。

上からぶら下がっているのは私のお気に入りのグルジアおやつ。
何で出来ているのかよく分からないけど、とにかくおいしい。

バトゥミまでは6時間半かかった。友達と会う約束をしているRadisson Hotelまで歩き、そこにバックパックを預け、一人街をぶらぶら。
ここは黒海沿岸のリゾート地。海で泳いできましたって格好の人がその辺うろうろしている。

そんな中、コーカサスから来た私は登山靴にモンベルのカッパ。
おいかなり浮いてるぞ・・。

正直この街はあまり楽しめなかった。バトゥミは綺麗だよ、絶対行くべきだよ、と言われてきたが、あまりにリゾート化されすぎていて私は全く合わない。
カジノやバーが並び、イルミネーションで道路は明るく照らされている。

私は何もない場所で伝統音楽を聞きながらゆっくりお酒を飲んでいる方がいいな。


ただ黒海に沈む夕日は、綺麗だった。空と海が真っ赤に焼けていて、つい立ち止まって見とれてしまった。

正直このときかなり疲れがたまっていて、早く横になりたいと思っていたのだけど、この夕日を見たらそんなの忘れてしまう。

無事友達と会い、その後荷物を預けたロビーで休憩していると知らぬ間に寝てしまった。
気付いたら夜中3時。ホテルの受付の人に起こされてしまったので、荷物を持ってその場を離れることに。

さて、トルコへ向かいます。

2012年8月28日

グルジアへ



26日、Ardalanにバス停まで送ってもらい、グルジア・トビリシ行きのマルシュルートカに乗る。
マルシュルートカの響き自体懐かしいが、これはミニバス。キルギスでも同じ呼び名でした。
グルジアまで8000ドラム(約20ドル)。16時に出発。


グルジア国境まではひたすら山道。途中湖が見えたり。のどかな田舎の道。

18時半頃、アルメニア出国局に到着。
パスポートを出し、スタンプをもらう。何もチェックされないことに未だにおかしいと感じてしまう。少し歩いて、グルジア入国。

入国局はかなり綺麗な建物。
今まで出入国局=汚くて怒声が飛び交う場所って感じだったのだが、ここは清潔で静かだ。本来こうあるべきなのよ。

またいつものように「オースズキ!」と言われ、入国スタンプを押してくれた。日本人はグルジアビザ必要無し。


無事グルジアに入り、また同じマルシュルートカに乗ってトビリシへ向かう。
車に乗っていても、教会の前を通れば乗客は自分の前で十字架を切る。

21時半頃トビリシのバス停に到着。
バスから降りた瞬間また「タクシー!タクシー!」とタクシーの運転手がやってくるが、私はバス停にあったメトロの駅へ向かい、ホストの家の最寄り駅Nazaladeviへ。

電車のカードが必要なのだけど、もちろん持っていない。
発行しにいこうとしていたら、綺麗なお姉さんが「いいから」と私の手を引き自分のカードで私を改札に通してくれた。お金は?と聞くとただ首を振って去っていってしまった。
惚れた。かっこ良すぎる。

重いバックパック背負ってメトロに乗る。小さな子供が車内に入ってきて何やら叫んでいる。お金を恵んでください、と言っているんだろう。数人がコインを差し出し、彼女に渡す。トビリシのメトロではこのような少女をよく見かける。

Nazaladeviの駅でホストのNanamzeと会い、彼女の家へ。彼女は40歳。この年で英語を話せるグルジア人は珍しいと思う。
彼女は常に誰かを家に泊めていて、彼女自身もよく一人で旅に出るらしい。


翌日は一人トビリシの街をぶらぶら。ここでは私はよくカザフ人かウズベク人と間違われる。トビリシには観光客が多い。特にイスラエル出身の人を良く見かける。
こんなにイスラエル人のいる国を今までに見たことがなかったが、彼らにとってグルジアは安い国で人気の観光地なんだとか。

私からすると、もちろん日本と比べたら安いが、日本を出てから旅した国の中ではグルジアの物価が一番高い。
街の中は十字架だらけ。教会もあちらこちらに。すれ違う人はほとんどグルジア人ではなく観光客。


グルジアビールARGO. さっぱりしていておいしい。

 ここでやっぱり一番話題に出るのは「ロシアグルジア戦争」。反ロシア姿勢はやはり強い。私はグルジア語が全く分からないのでロシア語でコミュニケーションをとっていたが、たまにロシア語を話していいか少し不安にもなったくらいだ。毎年ロシアは国境をグルジア側に100m200mと責めてきている、と。こんなポストカードも目にします。
 
 

グルジアはEUに加盟している。街の至る所でEUの旗を目にする。通貨はユーロではなく”Lari”. ここがEU圏だなんて変な感じ。


グルジアは街並みが整っていて美しい。色とりどりの可愛い家がぽつぽつと山の斜面に並び、頂上には決まって教会がある。十字架が街を見下ろし、人々を守っているかのように見える。

未だにアルメニア語とグルジア語の見分けがつかなくて、たまにアルメニアのコインを出してしまったり。どっちにしろ読めないのだが・・。


トビリシの住宅街。こういう道好きだなあ。

温泉もあります。日本を出てから初めて入った温泉。
れた体を癒し、風呂上がりにはビールとワイン。最高だね。

2012年8月26日

アルメニア




イスラム教国家のイランから、今度はキリスト教の世界アルメニア。

多くの人が首から十字架のペンダントを下げ、教会の前を通ると胸の前で十字架を3回切りお祈りする。
不思議な感じだ。

今までは床や路上に絨毯を敷き、メッカの方を向いてお祈りする人を見てきたのに。
当たり前だが、ここではハーフパンツを履く男性も、ミニスカートやタンクトップを着る女性も。

ホストのHaykは自分の家と別にアパートを持っていて、そこの部屋を貸してくれた。イランの人々はとにかく人を家に招くのが好きで、いつでももてなしてくれたが、アルメニア人はあまり人を家に泊めたがらない。
理由は分からないが、少し閉鎖的な気がする。

カウチサーフィン(参考)でエレバンのTravel Planを投稿したところ、メッセージをくれたのはたった3人。テヘランでは25件以上もきた。ちなみにメッセージをくれた3人のうち一人は20ドル払えば泊めてあげると言ってきた始末。どうやらこの女性は他のツーリストにも同じような内容のメッセージを送っていたようだが。

こういった詐欺も実際カウチサーフィンには存在するので注意です。


カザフスタン、キルギスタン、ウズベキスタンと同様、アルメニアも旧ソ連。
同じような建物、広場、像が見られる。
旧ソビエトの国ってなぜか絶対、馬に乗った英雄の像が首都の中心部にあるんだよね。軍隊や警察のユニフォームも同じだ。

言語はアルメニア語とロシア語。キルギスに3ヶ月いたときにロシア語を少し覚えたので大分助かった。

それから、またウォッカの世界。これには参る。
キルギスやウズベクにいたとき大分慣れたが、やっぱりまだ苦手だ。
というよりアフガニスタンやイランにいたときお酒などほとんど飲まなかったからかなり酒に弱くなっている。

アルメニア人はとにかく笑わない。
これは後から聞いた話なのだが、多くのアルメニア人は挨拶するときに笑う人を「クレイジー」だと思うらしい。
確かに、彼らは無言・無表情で互いの頬にキスするだけ。
”Hello” “See you”と私が笑顔で言っても彼らは無表情だし、私のホストはSee youと返してくれたこともない。
もしかして嫌われているのかとも思ってしまうくらいだ。

とにかく理解出来ない。どうやったら笑わずに挨拶できるっていうんだ。私には無理だ。


アルメニア人は、車より車のナンバーに高いお金を払う。きりのいい番号やぞろ目の番号が彼らにとって「いい番号」で、大切な人への贈り物は車のナンバーが定番らしい。
私からしたらナンバーなんてどうでもいいのだが、彼らはナンバーに数十万、数百万払ったりする。

アルメニアは元々大きな国土を持つ国だったが、アゼルバイジャンやトルコに領土をとられ、今はたった29800平方キロメートルの小さな国になってしまった。
Haykはよくアゼルバイジャンの領土ナクシヴァンについて話してくれた。


ノアの箱舟が辿り着いたとされる山Ararat
少し見づらいが、中央に見える柵はトルコとの国境。かつてはアルメニアの領土にあったAraratも今はトルコ領に。

正直エレバンの街自体はほとんど何もなく、なんとなくカザフスタンのアルマティに似ている。2日で十分だった。

そのままグルジアに行ってしまおうと思っていたが、3日目にイラン出身のArdalanと会い友達が泊めてくれるというので彼らの家へ。

アルメニアに来てから実は一度も笑ってなかった(笑えなかった)が、やっぱりさすがイラン人。笑顔で迎え入れてくれて、アルメニアに来て初めて楽しいと思えた。

ホストしてくれたのはArdalanと同じ医大に通うFarshadSajad。明るくていい子たちだ。イランが恋しくて仕方なかったので、彼らのペルシア語を聞いているだけで、何だか家に帰った気分になった。

アルメニアはイラン人がビザ無しで入れる数少ない国の一つ。多くのイラン人が勉強や仕事、観光のためにやってくる。
ここではヒジャブを脱ぎ、露出の多い服装で街を歩くイラン人の女の子をよく見る。
Facebookにも載せたが、まあこういうことです。


もちろん全員ではない。チャドルを着たイラン人だって見る。
でも多くのイラン人は自由になるためにアルメニアに来る。バーで50歳のおじさんに会ったが、彼はアルメニアで別の女性(売春婦)を探しに何度も来ている。

もちろん彼には奥さんも子供もいるが、イランでは浮気などバレたら既婚者は首つり死刑だ。



学生は皆休暇中。毎日パブやバーに行き朝5時頃まで飲む。
私がアルメニアに行く前、ポーランドの友達が「アルメニアはナイトライフを楽しむ場所だ」と言っていたが、まあ確かにそうである。
ヨーロッパやインドから来ている観光客や学生も多く、辺りでは様々な言語が飛び交う。

アルメニア人よりもイラン人やヨーロッパの人と多く接していた気がする。結局ここに4日間いました。

 
一体どこで手に入れたのか・・笑
宴会の予約はこちらエレバンまで。

2012年8月22日

イランからアルメニアへ


21日、ついにイラン最後の日。この日でビザの有効期限は切れる。
20時半、テヘランから来たアルメニア・エレバン行きのバスに乗る。値段は一気に上がって100000トマン(約47ドル)。

距離的にはマシュハド−ヤズド間と大して変わらないが、運賃は約6 倍。
何故こんなに高いのかと聞くと、「アルメニア行きのバスはこの会社しかないから」だそうだ。一日に一本しかバスが出ていない。

タブリズからアルメニア国境までは約200キロ。日付が変わる前に国境に着けるか不安だったが、200キロなら高速で2〜3時間くらいで着くだろう・・。

Amirsaalarの家族に礼を言い、バスに乗り込む。
バスに乗った瞬間、また涙。1ヶ月旅したイランともついにお別れ。アフガニスタンと同様、たくさんの違った意見を聞き、今まで考えたこともなかったようなことも考えさせられた国だ。

政治、宗教、文化、歴史、自然、何もかもが詰まった国。
熱心なイスラム教徒もいれば、隠れてお酒を飲む若者もいる。

5000年の歴史と現代的な街並みを、同時に見ることができる。
美しい山々、広大な砂漠、今回は残念ながら行けなかったがカスピ海にペルシア湾。

でもやっぱり何より心に残ったのが人々の優しさだ。いつでも温かく笑顔で迎えてくれて、ずっと私を気に掛けもてなしてくれた。
この気持ちを何と言葉に表したらいいか。「ありがとう」じゃとても足りない。

本当はもっといたかったし、ビザを延長することも出来たのだけど、次に進まなくては。ここにいつまでも居る訳にはいかない。

バスは1時間後夕飯のために停車。
「ビザが切れてしまうじゃないか、早く出発しようぜ」と言いたかったが、40分ほどそこにいた。

夜の道をひたすら進む。途中から山道になり、思うように前に進まない。この時22:30。だんだんと焦りだした。

携帯の回線が”Azerbaijan Bekcell”に変わっていて、急いでコンパスを出した。もしかして間違えてアゼルバイジャン行きのバスに乗ってしまったか?と急に不安になった。コンパスの針はただ北を指しているだけで分からない。

そこで地図帳を確認し、ようやく理解した。そうだった、アゼルバイジャンの飛び地がアルメニアの南西部にあるんだった。
バスはちょうどその付近を走っていて、アゼルバイジャンからの電波を拾ってしまっていたんだ。

なかなか国境に着かない。ついに0時を切ってしまった。やってしまった・・オーバーステイだ。罰金を払わなければならないのか。

1:30、ようやく国境に到着。急いでも無駄だと分かっていても、バックパックを背負ってパスポートチェックに走る。
また長い列があり、周りはアルメニア人ばかりだ。ようやく自分の番が来たところでパスポートを差し出す。
警官がパスポートを眺め、何も言わずにスタンプを押し、返してくれた。うわー良かった!
最高の笑顔で「Merci!」と礼を言い、外へ出る。
面倒だったのか、眠かったのか、分からないがとりあえず無事に一銭も払わずに出国できたことに安心だ。


イラン出国局にて。ありがとう、イラン。

バスで少し走り、アルメニア入国局へ。ここに来て一気に女性はヒジャブを脱ぎラフな格好に。もうヒジャブを着ける必要もない。

イランにいるときは嫌で仕方なかったがいざ外すとなると少し寂しい。
そしてやっぱりまだヒジャブなしで外にいると落ち着かない。つい周りを気にしてしまう。

入国局ではまずビザ申請。申請書に記入し、写真とパスポートコピーと一緒に提出すると、写真とコピーはいらないと言われた。申請書には写真を貼る場所があるが、必要ないらしい。

念のため調べておいたホテルの住所を書いておいたが、たぶん書かなくても大丈夫。10ドル払い、21日間のビザゲット。

そのままパスポートチェックと荷物検査を通る。もう今までのようにバックパックの中身を全て出され、写真や書類を見られることはない。なんて楽なんだ。国境通過にかかった時間は2 時間。あの長い列さえなければ1時間もかからないだろう。

またバスに乗り込み、エレバンへ向かう。
何度も寝ては起き、を繰り返す。今まで頭につけていたヒジャブをブランケット代わりにして熟睡。9時頃エレバンのバス停に到着!

2012年8月21日

タブリズ


ダマバンドから帰ってきてからはテヘランの隣の街Karajのホストファミリー宅へ。
お母さんの笑顔が大好きだ。彼女が笑うとこっちまで笑顔になれる。

イラン人に90%の確率で聞かれること。
「キャプテン翼とおしん、知ってる?」

「おしん」は私は見たことないのだけど、イラン人ほとんどがこのドラマを見ていたらしい。それからキャプテン翼。みんな口々にキャラクターの名前を挙げてきて面白い。

19日、1ヶ月の断食月ラマダンがようやく終わった。
この日は祝日。多くのイラン人は家族や親戚とながーい昼ご飯を楽しむ。

外に出ると、友達や家族と公園でピクニックする人がたくさん。日中に路上で水を飲んだりアイスクリームを食べている人を見ると未だにびくっとしていた。

20日夜、タブリズへ向かうバスに乗る。23時半発で19000トマン(約8ドル)。
毎回、次の市へ向かうバスに乗るたびにちょっと寂しい気持ちになる。
どこへ行っても「またいつでも帰ってきて」とホストファミリーが見送ってくれるが、次彼らに会えるのがいつなのか分からない。会えるかどうかさえも分からない。
そう思うと心底寂しくて泣けてくる。。

ちょうどこの1週間前くらいにタブリズ付近で大きな地震があった。正直行って大丈夫なのかと不安もあったが、ホストファミリーが「安心して」と待っていてくれていた。行く前から何度も「家族みんなあなたのことを待っているよ」とメッセージをくれた。

タブリズに着いたのは翌日朝7時。
なんと予定時間きっちりに到着!!!

他の地域に比べて涼しい。むしろ寒い。ホストのSaalarと会い、彼の家へと向かう。
 彼は両親と弟とタブリズ市内のフラットで暮らしている。弟は10歳。
この日もまたラマダン明け翌日で祝日。バザールに行っても多くの店が閉まっていた。
 

特に地震の影響は見られないが、古い家やフラットに住む人は余震で崩壊するのを恐れて公園にテントを建て生活している人が多い。



家族と一緒にタブリズから一時間ほど離れたKandovanへ。
ここに人々が生活している。ちなみにここのホテルは5つ星なんだとか。Kandovanとは蜂の巣という意味。蜂蜜が有名で、歩いていると甘い匂いがぷんぷん。

 
Saalarは今20歳。まじめで宗教熱心なお兄さん。

「ヒジャブを頭の半分だけ着けている人、特別な理由もないのにラマダン期間に断食しない人、結婚していないのに異性と関係を持つ人が『ムスリム』だと名乗るのが許せない」と彼は言っていた。今まで出会ったイラン人とは真逆タイプでびっくり。

どこでもそうだが、イランには「なんちゃってムスリム」は多い。ラマダン中に断食していない人はたくさんいた。街を歩けば、頭の後頭部からヒジャブを着けている女の子もたくさんいる。

私が会った人たちはだいたいが「無宗教」だと答えていたが、中にはもちろん「自分はムスリムだ」と言い張る人もいる。

チャドルを着て髪の毛も全て隠していても、ラマダン中「食べたいから、飲みたいから」と言って断食しない人もいる。イスラム教の好きな部分だけを選んで取り入れている人は実際多い。純ムスリムの人にとっては許せないことも多いだろう。

なんとなく、なんとなくなんだが、シリアやエジプトに続いてイランでもまた革命が起きるんじゃないかなって気がする。なんとなくね、ただの私の予感です。 というよりむしろ変わって欲しい。なんとかして変えてやりたいとさえ思う
何を信じるかなんて、自由であるべきじゃないか。イスラム教を信じる者だけがヒジャブを着て、コーランを読んで、お祈りして、モスクに行けばいいだけの話だ。

革命前にはミニスカートを履く女性もいたし、純粋なイスラム教徒だけがチャドルやヒジャブを着用していたという。今じゃ信じられない。ロングスカートだけを着て外出しようとしたら「中にズボンを履かないと警察にとめられる可能性がある」とさえ言われたのに。イラン人でもないのに街中でホメイニーとハーメネイの写真を見るとツバを吐きたくなる。

これはアゼルバイジャン博物館。ここは「東アゼルバイジャン」州。アゼリ語を話す人が多いです。
Ahad Hosseini によるLIFEという名の12 エピソードからなる彫像。

Ignorance.
2人の男が持っている武器に注目。

 
War.
ここでも両者の兵器に注目。

 
Chains of Misery

 
The Miserable

 
Hunger

 
Political Prisoners

 
A Crystal Ball

Population Growth

Racial Discrimination

 
5 Monsters of Death
中央のモンスターが持っているものはUraniam.
--> 原爆の素だ。
 
 
Anxiety

 Autumn of Life