2013年3月10日

帰国


  

カタールのあとマレーシアに3日だけ寄って帰国した訳ですが・・。


カタール、ドーハ。
ビルばかりの小さな街で、正直特にすることがないのです。

感動したのはガソリンの安さ。ただ地下鉄もなければ公共バスもないので移動が大変。
車がないとやっていけない世界。

マレーシア、クアラルンプール。
お腹を壊してトイレとベッドを往復していた記憶しかない。

見たいものとかいっぱいあったのだけど・・(泣)。

  
ゲロゲロ吐きながらの状態で飛行機へ。
日本に向かう飛行機、きっと色んな思いが込み上げて泣けてくるんだろうなとか思っていたが、それどころじゃない。

機内食がなかったのが唯一の救い。匂いでやられずに済んだ。
トイレと近い席だったのもラッキーだったわ。

1022時半、羽田空港に到着しました。
1年の旅を終え、無事に帰国です。

まずは今まで陰ながらに支えてくれた皆さまに心からのお礼を。
ありがとう。

行った国、39カ国。
キルギスに3ヶ月いたので実際に旅していたのは9ヶ月くらい。

たくさんの人に助けられたなあ。
各国、各地域でお世話になったホスト、84人。
でも84人のホストの家族や友達などを入れたらもっとだろうな。

ホストだけでなく、道端で助けてくれた人、移動中に話しかけてくれた人、自分の携帯を貸してくれてホストに電話させてくれた人・・もう言い出したらキリがないくらい、どこでも誰かが必ず助けてくれた。

ニュースでネガティブな情報ばかり流れてくるような国、
中国も含めアフガニスタンやイラン、アフリカ諸国やイスラエル・パレスチナなどに行っても、
いつも温かい人が迎えてくれて、優しくもてなしてくれた。

危険な場所ももちろんあったけれど、それ以上にそこで見た美しい自然やのんびりと暮らす動物たち、
マーケットでの美味しそうな匂いや明るい人々の印象はやっぱり強い。

いつ何があるか分からないような状況の中でも、今を大切に生きている。

よく聞かれるのが「どこの国が一番好き?」って質問。

これ実際かなり難しい。好きな国なんていくらでもある。何が好きかにもよる。自然、文化、歴史、食べ物、音楽、便利さ、物価、あとみんなが気になるのは美女が多いかどうかとか?

難しいけど、もし今どこかに戻れるとしたらそれはイランだなーって思う。
一ヶ月かけて旅したイラン。
人がとにかく親切で、文化に歴史に自然に何もかもが詰まった国。
そして政府に自由を奪われながらも、若い子達がこっそり楽しみを見つけて、
自分たちなりに毎日を充実させていることに一番惹かれた。

日本ではそんなことする必要ないからね。

訪れたメディア組織・会社は約20件。
中でも特に印象が強いのがトルコのディヤルバクルにあるクルド語新聞社Azadiya Welat. 
そこで働く記者、編集者のうち70%が刑務所にいるという、トルコの報道自由度の低さを改めて知ってしまった訳ですが。
社長室にはトルコ政府軍に殺されたジャーナリストたちの写真が並べられていました。

記者や編集者の多くは女性だったのもまた印象的。



旅をしていれば嫌でも集まる、世界中のコイン、紙幣。

それからSIMカード。
古いSIMフリーのiPhoneと、たまにNOKIAを使っていたのだけど、SIMは特にアジアやアフリカでは安く手に入るので便利でした。

そして一番の宝物は旅のお供バックパック。
世界中のホストからメッセージをいただきました。全て彼らの言葉で書いてあるので何が書いてあるのか分からないけれど、思い出の詰まったバックパックです。

旅の持ち物とか各国ビザ情報など適当にまとめる予定でいます。
旅に出たい!って人はぜひご利用ください。
今までブログを読んでくださりありがとうございました。

ではまた次の旅まで^^

2013年3月3日

イスラエル〜ヨルダン〜カタール


 

ヨルダンに着いた翌日は、ホストとJerashというアンマンから1時間ほど離れた小さな街へ。


世界史が苦手だったわたしですが、「あ〜なんか聞いたことあるな」と思うような地名や人名がここでもたまに出てくる。
コリント式の建物とかゼウス神殿とか・・
ここはデカポリスの一つで古代ローマ遺跡がたくさん見られる。



ハドリアヌス凱旋門。

ペトラに行くことを断念したわけだが、
こは観光客がそんなに多い訳でもないし、静かにのんびり遺跡を見ながら散歩出来る。
周りの自然も豊かで空気も美味しい。
 



そのあとに向かったのは死海。地表で最も低い場所がここ死海。
そのため塩分濃度は高く、魚は存在しないという。だから死海。
寒くてとても泳ぐ気にはなれなかったけど、死海に沈む夕日は最高でした。

ただここぼったくりが多くて、ただ椅子に座っているだけでも、「そこに座るなら4JDS払え」と言われる。
しかもこの椅子の場所によって値段が変わるらしい。
「ここは夕日がよく見える場所だから10JDSだ」とか言ってきたりね。払うかよ。。


  
ちょうど自炊してご飯をつくっている人たちがいて、「ちょっと食べてけよ!」と言われたので少しいただくことに。
めちゃくちゃ辛かったけど、こういうの嬉しい。

ヨルダンで一番びっくりしたのが英語を話せる人が多いということ。
大学では英語で授業を行うのが主流なのだとか。年配の人でもかなり流暢に英語を話せる人が多い。
もともとイギリスの植民地だった影響もあるだろう。

ちなみにアラビア語でヨルダンはオルダン。英語ではジョルダン。
 

ヨルダンやエジプトでもよく飲んでいたサトウキビジュース。
コレステロール値を下げたりとか・・たくさん効能があるらしい。

ヨルダン・アンマンからは飛行機でカタール・ドーハへ向かう。
カタール行きだが私の便はUAESharjahで乗り換えのアラビア航空。
アンマンには新しいターミナルと古いターミナルがあるのだけど、アラビア航空は残念ながら古い方でした。

12時に離陸。エアアラビアは安い分、機内食はなし。水も有料。
Sharjahに到着したのは15:50
乗り換えのチェックインを済ませ、今度はカタールのドーハ行き飛行機に乗る。

UAE時間18時に出発した飛行機は、ドーハ国際空港にカタール時間18時到着。時差は一時間。

カタール空港の入国官は女性も男性も伝統服。
そしてみんな適当。ビザ代として100Riyal支払い、スタンプゲット!

着いてまずSIMカード購入。
50Rialで確か30Rialくらいクレジットが付いていたかな。


2013年2月28日

パレスチナ自治区




パレスチナ自治区、Ramallahへ。

エルサレムからは30分置きくらいにバスが出ていて、たった30分で到着。
運賃も安く、7.5NIS

ここに来ると、いよいよパレスチナだな、と改めて感じる。
街の中心にはパレスチナの旗がなびき、ヘブライ語は見かけない。

何より困ったのがSIMカード。
イスラエル側で買ったSIMカードを使っていたのだけど、街の一部(イスラエル軍の基地周辺)でしか電波が通らない。
ここはパレスチナ、あっちはイスラエル。

エルサレムからたった30分の距離なのに。衝撃である。

またこれはイスラエル内でもそうだったが、他のアラブ国からの電話も届かず。
こちらから掛けることは可能だというけれど、なぜかナイジェリアに電話しても繋がらなかった。なぜナイジェリアまで・・?


日本よりお先に、満開の桜を観賞。

丁度この日、ラマッラーから1時間程の街ヘブロンでイスラエル軍とパレスチナ人の衝突があった。
刑務所に入れられていたヘブロン出身の男性Jaradad.
彼が取調中に「心臓発作」で亡くなったというニュースが流れた。だが検死後、彼の遺体から複数のアザや怪我が見られたことから、死因は心臓発作でなく拷問死だった可能性が高いとされた。

とりあえず私もヘブロンへ向かってみることに。


着いてしばらくはのんびり街中を歩いていると、急に子供達がバーと走ってくる。
何だ何だ、とその先を見るとイスラエル軍がゴム弾を発砲していた。


車両通行止めのために道の真ん中に置かれた炎。
その先にはイスラエル軍の兵士が見張っている。

イスラエル軍に向かって「道をあけろ!」「パレスチナから出てけ!」と叫ぶ子供達。
石を投げ、爆竹で脅す子供達もいる。

  
この日は大体30分に一回くらいのペースでイスラエル軍がマーケットや道の先から走ってきてはゴム弾を発砲し威嚇。彼らが来ると子供達も一斉に逃げ出す。

正直、この日ここにいたのは10代の子供たち。10歳以下の子供も何人かいたと思う。
そんな彼らに対してイスラエル軍はなにムキになっているのか・・。
相手は小さな子供。こんな言い方はひどいかも知れないが、何もできない子供達だ。

一方イスラエル軍はゴム弾で彼らの目を狙ってくる。目元にアザのある子供や眼帯を付けた子供を何人も見た。兵士にお腹を思い切り蹴られた子供もいた。

周辺にはパレスチナ警察もいた。
だが残念なことに、彼らは何もできない。ただ「もう良いから帰れ」と子供達に促すだけ。

 SHUHADA STREET. アパルトヘイトストリートとも呼ばれている。 

SHUHADA STREETの先に住む人は、市街に来るためには毎日チェックポイントを通り、荷物をチェックされる。
ただ買い物に来るだけ、学校へ行くだけ、仕事に行くだけなのに、だ。


イスラエルによって閉ざされたシャッター。かつてここには多くの店やレストランが並び、賑わっていた。今は閑散として人々も覇気を失ってしまっている。


チェックポイント先のデッドタウンと化した街。
イスラエル人は車で移動出来るが、パレスチナ人がここで車を運転することは禁止されている。

エイブラハムモスク。
モスク内に入るのにも3つのゲートを通らなければならず、行く度に「銃やナイフは持っているか」と聞かれる。パレスチナ人のモスクなのに、入り口にはイスラエル軍の兵士が立っている。

私がモスクへ入る際、彼らは一度も私のリュックの中身を見なかった。私の前に並んでいたパレスチナ人の女性は荷物をチェックされ、爪切りを一時預かられていた。どちらかと言えば私の方が部外者なのに、これはおかしくないか。

 
友人が最近始めた”Hebron Tour”に参加してみた。
ちょっと面白かったのが、イスラエル兵のすぐ隣で「ここはイスラエルに占領されている場所だ」「彼らはいつも俺らを見張っている」とツアーガイドの友人が説明していたこと(笑)。イスラエル兵も苦笑い・・。


毎日マーケットに通い、ここで子供用服を販売していた人とよく話をしていたけれど、経済的にかなり厳しいと話していた。
日によってさまざまだが、一日に稼げるのは200NISほど(5400円)、先日のようにイスラエル軍との衝突のあった日にはたった20NIS500円ほど)しか稼げなかったという。

 
今では荒れたイメージばかりのヘブロン、街並はとても美しい。


奥に見える壁の先はイスラエル人移住地区。
向こう側に行くには遠回りしてチェックポイントを通らなければならない。

 
マーケットの天井にも格子が張られている。

正直ここにいるとき、「次は何が起こるのだろう」と期待に胸を膨らませていた自分がいた。
まるで何か起こって欲しいかのように。

初日、睡眠不足でバスで爆睡していた私が、ここに来て疲れも眠気も忘れ、イスラエル軍とパレスチナ人の様子を見に走って飛び込んでいった。
風邪も引いて体調は最悪だったのに、ここではそんなことをすっかり忘れてしまうほどだった。

自分が残忍な人間に見えてしまったんだよなあ。
彼らにとっては辛いこと、苦しいことが、今の私には興奮材料となっている。

ジャーナリストというのはこういうものなのか。
人の不幸で食っていくというのは心苦しいものでもある。

そんなこと思いながら再びラマッラーへ。
ヨルダンへ向かいます。

2013年2月24日

イスラエル



イスラエルの国境からはバスでエルサレムへ。
76NISで所要時間は約4時間。(この日は道が混んでいたため通常より時間がかかったが、ラッシュ時でなければ2時間で着く)

エルサレムのバス停でum alFahm(ウーメルファヘム)行きのバスを探す。
本数は少なく、次のバスは23時半発。

夕飯を食べつつ、バス停でのんびりしながら待つことに。
エルサレム−ウーメルファヘム間は36NIS1時間半で着く。


ウーメルファヘムの風景。ここはアラブ人の多い街で、モスクが多い。
レストランなんかもアラブ系の店ばかりだ。


ホストのお母さんが働く学校へ。
英語の授業に参加させてもらった。タイミングのいいことに、クラスでは「となりのトトロ」を見終えたあとで、物語について英語でディスカッションしていたところ。
「日本には本当にトトロがいるの!?」と子供達が質問してくる。うーんわからないけど、いるかもね^^


ウーメルファヘムから30分ほどの街、ネザレス。

次に訪れたのはテルアビブ。
この週末はユダヤ教の祝日プリム。
アメリカでいうハロウィンみたいなもので、皆コスチュームを着て街の中心部で行われているパーティーへ。


マリオとルイージもいれば・・


ホットドッグわんちゃんも!可愛い!!

イスラエルではほとんどの人が英語をペラペラに喋る。
「なぜこんなに英語を話せる人口が多いのか」と聞くと「私たちは米国との関係がとても強いから」って。
確かにその通りだな。

ちなみにイスラエル内のアラブ人の多い町ウーメルファヘムやネザレスでは、学校で7歳からヘブライ語を学び始める。
アラビア語を話す人が多い地域でも、病院のお医者さんはイスラエル人、アラビア語を話さない。道路の交通標識もヘブライ語で大きく書かれていて、アラビア語は小さな文字。
嫌でもヘブライ語を話さなければ暮らしていけない。

一方、イスラエル人でアラビア語を話す人は非常に少ない。
学校では第一外国語として英語、その後、第二外国語としてもちろんアラビア語を選択する者もいるが、多くはフランス語やドイツ語、スペイン語を学ぶという。

「アラビア語って数字の書き方まで違うじゃない。あれ狂ってる!」とテルアビブ出身のシラ。
うーん、実は日本語にも漢数字があるんだな。

テルアビブからは再びエルサレムへ戻る。
エルサレムでどうしても泊まってみたかった”Faisal Hotel”(秘密結社ホテル)に泊まることに。この旅で2度目のホテル泊まりだ。

ところがこちらのFaisal Hotel、名前を変えてNew Palm Hotelになっていた!
入り口には小さく”Faisal”と書かれていただけ。

きっと名前が問題になったのだろうな・・笑

ホテルオーナーや従業員は皆アラブ人。
アラビア語が飛び交い、泊まりにきている客もなぜかアラビア語を話せる人がやたらと多い。



ホテル前のダマスカスゲート。
ここから長ーいマーケットが続く。


マーケットの中にもイスラエルの治安警察が常に配備されている。
ただのマーケットなのに!彼らにとっては「ただいるだけ」かも知れないけれど、これ終日監視されている側からとったらかなりのストレスだわ。


Western Wall「嘆きの壁」
ユダヤ教徒の男性は頭に小さな帽子をかぶり、壁に向かって礼拝。
正ユダヤ教徒は黒いハットに耳元からのチョロ毛、全身黒にまとったスーツがお決まり。


シナゴーグがぽつぽつと。
後ろを振り向けばイスラム教モスク、また別の場所に行けば教会。
さすがは3宗教の聖地、エルサレム。

このとき風邪がひどかったので、エルサレムでは残念ながらいい思い出なし・・。くっそ暑いアフリカから来た私にはイスラエルは寒すぎる・・。