パレスチナ自治区、Ramallahへ。
エルサレムからは30分置きくらいにバスが出ていて、たった30分で到着。
運賃も安く、7.5NIS。
ここに来ると、いよいよパレスチナだな、と改めて感じる。
街の中心にはパレスチナの旗がなびき、ヘブライ語は見かけない。
何より困ったのがSIMカード。
イスラエル側で買ったSIMカードを使っていたのだけど、街の一部(イスラエル軍の基地周辺)でしか電波が通らない。
ここはパレスチナ、あっちはイスラエル。
エルサレムからたった30分の距離なのに。衝撃である。
またこれはイスラエル内でもそうだったが、他のアラブ国からの電話も届かず。
こちらから掛けることは可能だというけれど、なぜかナイジェリアに電話しても繋がらなかった。なぜナイジェリアまで・・?
日本よりお先に、満開の桜を観賞。
丁度この日、ラマッラーから1時間程の街ヘブロンでイスラエル軍とパレスチナ人の衝突があった。
刑務所に入れられていたヘブロン出身の男性Jaradad.
彼が取調中に「心臓発作」で亡くなったというニュースが流れた。だが検死後、彼の遺体から複数のアザや怪我が見られたことから、死因は心臓発作でなく拷問死だった可能性が高いとされた。
とりあえず私もヘブロンへ向かってみることに。
着いてしばらくはのんびり街中を歩いていると、急に子供達がバーと走ってくる。
何だ何だ、とその先を見るとイスラエル軍がゴム弾を発砲していた。
車両通行止めのために道の真ん中に置かれた炎。
その先にはイスラエル軍の兵士が見張っている。
イスラエル軍に向かって「道をあけろ!」「パレスチナから出てけ!」と叫ぶ子供達。
石を投げ、爆竹で脅す子供達もいる。
この日は大体30分に一回くらいのペースでイスラエル軍がマーケットや道の先から走ってきてはゴム弾を発砲し威嚇。彼らが来ると子供達も一斉に逃げ出す。
正直、この日ここにいたのは10代の子供たち。10歳以下の子供も何人かいたと思う。
そんな彼らに対してイスラエル軍はなにムキになっているのか・・。
相手は小さな子供。こんな言い方はひどいかも知れないが、何もできない子供達だ。
一方イスラエル軍はゴム弾で彼らの目を狙ってくる。目元にアザのある子供や眼帯を付けた子供を何人も見た。兵士にお腹を思い切り蹴られた子供もいた。
周辺にはパレスチナ警察もいた。
だが残念なことに、彼らは何もできない。ただ「もう良いから帰れ」と子供達に促すだけ。
SHUHADA STREET. アパルトヘイトストリートとも呼ばれている。
SHUHADA STREETの先に住む人は、市街に来るためには毎日チェックポイントを通り、荷物をチェックされる。
ただ買い物に来るだけ、学校へ行くだけ、仕事に行くだけなのに、だ。
イスラエルによって閉ざされたシャッター。かつてここには多くの店やレストランが並び、賑わっていた。今は閑散として人々も覇気を失ってしまっている。
チェックポイント先のデッドタウンと化した街。
イスラエル人は車で移動出来るが、パレスチナ人がここで車を運転することは禁止されている。
エイブラハムモスク。
モスク内に入るのにも3つのゲートを通らなければならず、行く度に「銃やナイフは持っているか」と聞かれる。パレスチナ人のモスクなのに、入り口にはイスラエル軍の兵士が立っている。
私がモスクへ入る際、彼らは一度も私のリュックの中身を見なかった。私の前に並んでいたパレスチナ人の女性は荷物をチェックされ、爪切りを一時預かられていた。どちらかと言えば私の方が部外者なのに、これはおかしくないか。
友人が最近始めた”Hebron
Tour”に参加してみた。
ちょっと面白かったのが、イスラエル兵のすぐ隣で「ここはイスラエルに占領されている場所だ」「彼らはいつも俺らを見張っている」とツアーガイドの友人が説明していたこと(笑)。イスラエル兵も苦笑い・・。
毎日マーケットに通い、ここで子供用服を販売していた人とよく話をしていたけれど、経済的にかなり厳しいと話していた。
日によってさまざまだが、一日に稼げるのは200NISほど(5400円)、先日のようにイスラエル軍との衝突のあった日にはたった20NIS(500円ほど)しか稼げなかったという。
今では荒れたイメージばかりのヘブロン、街並はとても美しい。
奥に見える壁の先はイスラエル人移住地区。
向こう側に行くには遠回りしてチェックポイントを通らなければならない。
マーケットの天井にも格子が張られている。
正直ここにいるとき、「次は何が起こるのだろう」と期待に胸を膨らませていた自分がいた。
まるで何か起こって欲しいかのように。
初日、睡眠不足でバスで爆睡していた私が、ここに来て疲れも眠気も忘れ、イスラエル軍とパレスチナ人の様子を見に走って飛び込んでいった。
風邪も引いて体調は最悪だったのに、ここではそんなことをすっかり忘れてしまうほどだった。
自分が残忍な人間に見えてしまったんだよなあ。
彼らにとっては辛いこと、苦しいことが、今の私には興奮材料となっている。
ジャーナリストというのはこういうものなのか。
人の不幸で食っていくというのは心苦しいものでもある。
そんなこと思いながら再びラマッラーへ。
ヨルダンへ向かいます。