2012年9月27日

トルコから、ブルガリア通過してルーマニア


予想以上に長く滞在したトルコを離れ、ブルガリアのヴァルナ行きバスに乗る。
イスタンブールから ヴァルナまで 65TL
19時発のバスだったが、バスが到着したのは20時過ぎ。

急いでパッキングして走ってバス停まで来たのに・・。まあ、よくあることです。

ついにヨーロッパに入るんだなあ。
ちょうど日本を出てから半年が経ったところ。
あっという間だったのか、長かったのか。

最初の3ヶ月をキルギスで過ごしていたから正直感覚がよく分からない。
時々、「旅に疲れた」と感じることももちろんある。
でも新しいものを発見したり、素敵な出会いがあると、もっと多くの場所で色んなもの見たいって思うんだよね。
ますます楽しくなってくる。だから辞められない。

期限なんてなければいいのに!って思う。遅くとも4月前には帰らなければいけない。大学が始まってしまう。あと6ヶ月。

ヨーロッパ、アフリカ、中東。全てまわれるか・・? 
アフリカ中東に時間を残すために、ヨーロッパは少し駆け足で周らないと。

0時過ぎ頃、国境に到着。バスから降りてトルコ出国のスタンプを押してもらう。
入国した場所がイラククルディスタンとの国境だからか、一瞬顔をしかめていたが、無事出国。

続いてブルガリア入国。ロシア系の顔をした警官が並ぶ。こちらも問題なく入国。

またバスに乗り込み、夜のブルガリアの道を走る。
いつもは眠れない夜行バスだが、このときは気持ちよく眠れた。目が覚めたらもう目的地のVarna。朝5時でした。
バス停でも何でもない、街の中央に下ろされた。正直右も左も分からないし、ブルガリアのお金も持っていない。ルーマニアに行くにはバス停に行かねば。

丁度、英語が話せそうな若い男の子がいてタクシーを使おうとしていたのでシェアさせてもらった。
彼は途中で下り、私はバスターミナルへ向かう。
途中換金所に寄ってもらい、ルーマニアまでのバスに足りそうなくらいのお金を換金。

5時なので当然バスターミナルは開いていない。近くのガソリンスタンドに24時間オープンのカフェがあったので、そこで数時間待つことにした。

眠かったのであまり覚えていないが、美人が多かったのが印象的^^
それに、タクシードライバーもそうだったが、英語が通じる。
2時間ほど読書しながら時間をつぶし、明るくなってきたところでバスターミナルに入る。

ブカレスト行きのバス会社は、ターミナルから外に出て少し見つけにくい場所にあった。
店員さんにブカレスト行きのチケットがほしいと言うと、「今日?ないよ」と言われた。
いや、そんな訳ないだろ、と根拠もなかったが突っ込むと「ちょっと待って」と言いどこかに電話してくれた。
OK、まず国境のRuceに行って、そこでブカレスト行きに乗り換えて」と、チケットを発行してくれた。

やれやれ。その店で16ブルガリアレフ払い、別のレジで40レフ払う。
40レフがヴァルナからルセで、16レフがルセからブカレストってことなのか?

バスは10時半発。まだ出発まで3時間ほどあったので、朝食を食べながらバスターミナル内でのんびり座って待つことに。

バスは予定通り到着。国境までは3時間ほど。Ruceだ、と運転手に起こされ、ブカレスト行きのバス乗り場へ向かう。

ブカレスト行きは、バスでなくワゴン車だった。
6人ほどでシェア。イギリス人とドイツ人のパッカーもいて、それぞれの旅の話をしながら国境を越えブカレストへ。

ヨーロッパ内ではほとんどの国でスタンプさえも押さない。
ブルガリア出国スタンプは押してもらったが、ルーマニア入国スタンプはなし。


国境からは約1時間で首都ブカレストに到着。
ここでもやっぱりバス停でなく街の中央で下ろされた。
お金を換金し、イギリス人のパッカーAlexと遅い昼ご飯を食べにいった。ルーマニア料理のスープ。

彼は推定40歳くらいだが、自由に世界をまわり歩いている。
久しぶりにネイティブの英語(といってもマンチェスター訛りだが)を聞いた気がした。

もうこれからしばらくヨーロッパでは、言葉に困ることはあまりないのかな・・?楽だけど、ちょっぴり寂しい気もする。全く別々の言葉でボディーラングエッジ使いながらしゃべるのは、大変だけど楽しい。分かってもらえたときの嬉しさも味わえる。

このあと無事ホストとも会えました。
ルーマニア編につづく。

2012年9月25日

再び新聞社へ−イスタンブール編


21日、アンカラを離れバスでイスタンブールへ。

1415分発のバスでイスタンブールまでは45TL。イスタンブールに近づくとだんだんと道が混み始める。6時間で着く予定だったが1時間オーバー。

イスタンブールにはアジア側とヨーロッパ側二つのメインバスターミナルがある。
ボスポラス海峡をつなぐ橋を渡り、私はヨーロッパ側のEsenlerというターミナルへ。

今度のホストはSivasでお世話になったEmreの友達Hakan
妹と友達とここで暮らしているが、地元はシリアとの国境付近AntakyaHatai)。
彼の祖父母はシリア人で、両親はトルコで生まれ育った。トルコ語とアラブ語を話す。

彼はイスタンブールの大学で工業を学んでいる。
ちょうど前日まで休暇でハタイにいて、シリア反政府派と何人か会ったそうだが、「今回は全部で150人殺してきたぜ」と自慢してくる者もいたという。

彼は政府派(アサド派)だが、この話は彼の家ではタブー。
一緒に住む友達もまたハタイ出身だが彼は反アサド派でシリアの話題になると喧嘩になってしまうからだそう。

翌日はまずCumHurrietという新聞会社へ。
数年前このオフィスは政府から爆撃を受けたこともある(幸い死者は出なかった)。入り口には常に警官が数人立っていて、中に入るときには荷物検査もある。

英語を話せる記者が時間を割いてくれ、社内を見せてもらった。
その後質問をいくつかしていたのだが、爆撃の話や政府との関係について質問し始めると急に顔色を変え、”OK, that’s all. See you”と出口まで連れて行かれ、追い出されてしまった・・。

ここが政府側なのは知っていたが(むしろだからこそ色々聞きたかったのだが)、やはりタブーに触れてしまったようだ・・。
友達も一緒にいたから余計怪しまれたのかもしれない。

仕方なく街の中心部に戻り今度はクルド人の新聞会社Gundemへ。

ここでも最初はかなり怪しまれた。というより怖がっていたように見える。
トルコ語を話すHakanといたため、スパイだと思われたのかも知れない。彼がハタイ出身でアラブ系だと言うと、ほっとした表情で中に入れてくれた。
ここでは誰一人として英語を話さない。Hakanが全て通訳してくれた。

Gundemはクルド人によるトルコ語の新聞。
Diyarbakirではクルド語の新聞社Azadiya Welatを訪問したが、Gundemはトルコ人に現実を知ってもらうためトルコ語で記事を書いているという。
ここでも、これまで政府軍によって殺された20人以上のジャーナリストの写真が並べられていた。社内全ての部屋に隠しカメラもある。

編集長と会い、今度はようやく質問させてもらえた。
ここで聞いた話は、Azadiya Welatで聞いたのとほぼ同じだった。クルド人記者たちの置かれている状況はイスタンブールだろうと変わらない。

今も多くの記者が刑務所にいて、毎日のように警察や政府から電話がかかってきては記事について指摘されるのだという。

社内には政府用の部屋もあり、毎日彼らが来て翌日用の新聞のチェックを受けなければならない。
彼ら(政府)にとって都合の悪い文章があれば、全て刷り直し。
他の新聞社と同じ写真を使っても、彼らだけが非難され、その写真を使った記者は裁判にかけられることも。

Azadiya Welatと同様、本社とは思えないほど古い建物で、社内は暗く、安いパソコンを使用していた。
女性の社員の方が多いのが特徴的。何故かと聞くと、女性の方が自由に対する意識が高く、自分らの置かれている状況をより多くの人に知ってもらいたいと願っているからだそう。
そういえばAzadiya Welatも女性記者が多かった。

それにしても、ホストがアラブ系で本当に良かった・・。
もしごく一般的なトルコ人だったら、クルド人の新聞社になんて一緒に来てくれないだろうし、彼らも受け入れてはくれなかったかも知れない。

その日の夜は飲みに。英語を学びにきているというフランス人やスペイン人に会ったが、正直なぜトルコに英語を学びにくるのか全く理解出来ない。自分の国にいた方がよっぽどまともな英語教育が受けられると思うのだが。
平日のパブはそういった学生たちで賑わっている。


翌日はイタリア人・ポルトガル人のパッカーも一緒にAYASOFIAへ。
もともと教会だったものが、モスクに建て替えられ、現在は博物館になっている。


アッラー、モハメド、中央の絵はマリアとイエスキリスト。

十字架が消された跡が残っている。

最後にブルーモスクへ。もうしばらくモスクは見られないから。
アザーンもなんだかんだで恋しくなるんだろうなあ。

ヨーロッパへ入ります。

2012年9月22日

首都アンカラ



胃腸炎が治らぬまま、Ankara行きの夜行バスに乗る。
アンカラまでは70TL。約12時間という長い道のり。どういう訳か、日中のバスなら爆睡できるのに、夜行バスは全く眠くもならない。
ぽかぽかした日差しが眠気を誘ってくれていたのか・・。

iPhoneに入れてあるペルシア語レッスンを聞きながら眠くなるのを待つ。結局眠りについたのは朝5時頃。が、1時間しか眠れなかった。

アンカラのバス停はAnkaray(メトロ)の駅とくっついているので、そのままタクシーを使うことなく移動出来る。
さっそくメトロに乗り、ホストの仕事場の駅へと向かう。

ホストのSerdarと無事会え、彼の職場へ。彼は大学の教授で国際法学を教えている。なんと静岡県立大に6か月留学していたことも。
私の地元である静岡を知る外国人なんて今まで見たことがない。

トルコで今まで訪れた街と、アンカラの違いは「人にじろじろ見られないこと」だ。
アンカラは首都だけあってやっぱり外国人も多い。日本人や中国人も多いため、見慣れているのだろう。

東部、南部では何をするにもまわりにじろじろ見られていた。そこまで見なくてもいいじゃない、と言いたくなったくらい。


1日目はSerdarの家族のアパートで、二日目、三日目はイラン人の友達にお世話になった。イラン料理をごちそうしてもらい、ようやく胃腸炎が治った。
イラン料理はあまり油を使わないし、イランに1ヶ月いたからお腹が慣れていたのかな・・?

10日間も続いた腹痛から解放されて嬉しさのあまり泣きたくなりました。

携帯はこの時すでに期限切れ。
どうやらトルコは100TL払って登録しないと1週間以上使用できないらしい。
最初はiPhoneを使っていて、その後圏外になったのでNOKIASIMカードを移した。が、そのNOKIAまでもう切れてしまい、手元に使える携帯がない・・。

トルコに滞在するのも残り数日。ホストとの連絡に若干困るが、テレホンカードで我慢することに。

ここでビザ申請してイラク領クルディスタンに行こうと思ったが、航空券が500600ドルほどする。
バスだと片道120ドルほどで行けるが、正直またあの道のりをバスで戻るのもなあ、と。
ものすごく行きたいが今回は諦めよう。
帰国する前ヨルダンかカタールから飛ぶのも有りだな。

アルメニアで会ったイラン人も同じだが、イランから他国へ勉強しにきた学生たちは急に開花する。
日本では「高校デビュー」「大学デビュー」とかって言葉があるが、彼らの場合は「留学デビュー」か?

女の子達は当然ヒジャブを着用しないし、毎晩飲みに行っては自分のアパートに異性を連れて帰る。どれもイランではタブーだ。刑務所行きか、鞭打ち系か、石打ち刑ってところか。

ちなみに私のホストは大学院生で、朝から晩まで研究室にこもりミクロ工学の研究をしていた。何やら色々詳しく教えてくれたが、私はミクロ工学の知識などゼロなので彼らが何を言っているのか全く分からない・・。


アンカラでは特にこれと言って何もせず。
内陸というのもあって、夜は少し肌寒い。日中は暑いが、日が沈むと半袖ではいられなくなる。

英語の教師をしているトルコ人のBarishと会ったが、驚くほどに英語がしゃべれない。
本当に先生をしているのか、と疑ってしまうほどだった。

トルコは思ったより英語を流暢に話せる人が少ない。
留学していた人や個人的に英語を熱心に学んでいた人も結構いて彼らは大抵流暢に話せるが、学校教育だけで英語の勉強を終えてしまった人はほとんど片言だ。

日本に来る外人も日本人の英語の出来なさに驚くと言うが・・ただ日本人との違いは、トルコ人は例え話せなくても「自分は英語が出来る」とアピールすることだ。

カウチサーフィンのページで話せる言語の欄に”English(expert)”と書かれていても、会ってみると結局Google翻訳で話しかけてきたり。

まあここはトルコなので私がトルコ語を話さなくては。
旅をしていると色んな言語がごちゃまぜになってくるんだよね。3ヶ月キルギスにいた後はしばらくロシア語が消えなかった。
次に行くルーマニアではトルコ語が出てしまいそうだ。

2012年9月18日

Sanliurfa



8時半、Shirnakを離れSanliurfa行きのバスに乗る。
直通はないので一度Cizreで乗り換え。ShirnakからUrfa(Sanliurfa)までは40TL

何もない荒れ地地帯の中をバスが進む。
途中、バスが速度を緩めたので窓の外を見てみると、トルコ軍の戦車とその隣で銃を持って走るトルコ兵が。何かを追うように走っていった。「いつものこと」だという。

特に何も起こらないが、バスの乗客は皆不安げな顔で窓の外を見ていた。

7時間ほど走り、16時前ころUrfaに到着。そんなに大きな街ではないが人口は300万人以上いるらしい。
滅多に外国人観光客は来ないと言っていたが、高そうなホテルもたまに見た(Hiltonグループのホテルまで!)。

ホストのEmrahが彼の伯父さんの家に連れて行ってくれた。
彼の伯父さんの家族がホストファミリーだ。誰も英語をしゃべらないが、Emrahや彼のいとこも来てくれてみんなで夕飯。温かい家族だ。

ここに来て、久々に心から笑った気がした。
もちろん、前のホストもとても明るくいい人で、いつも笑顔にさせてくれたが、腹を抱えて笑うのとは違う。胃腸炎とひたすら闘っていたためか。
Emrahは明るくて、面白くて、何をしても楽しませてくれる。
笑わせてくれてありがとう。

きっとこれが必要だったんだろうなー。
薬でも治療でも睡眠でもなく、笑いが必要だったんだなあ。Emrahはきっと何も考えていないだろうけど、何気ないところでこうやって助けてくれる人がいる。

毎日のように新しい出会いがあって、その一つ一つを少し疎かにしていたような気がする。
私にとってはいつものことでも、彼らにとって私は特別なゲストだ。与えられるだけでなく、私からも何かプレゼントしなきゃ。

その日の夜は屋上に布団を敷いて、満点の星空の下寝た。ここは室内があまりに暑いため、周りの家庭も皆屋上に布団を敷いて寝ていた。
お腹の痛みなど全くなかった。楽しいことだけが頭に浮かぶ。


次の日は一人街を歩く。小さな女の子たちが寄ってきては英語で話しかけてくる。
途中道に迷ってしまったので小さな男の子たちに聞いてみると、行きたい場所まで連れて行ってくれた。

自分用の水を買うついでにお礼にとジュースをおごってあげようとしたら、断固として断られた。
きっと何日もシャワーを浴びていないであろうぼさぼさの髪の毛に、泥だらけでぼろぼろの服と靴。
ポケットには きっと一銭も入っていないだろう。
最後にありがとう、と言って行ってしまった。礼を言うのはこっちの方だ。

遠慮して いるだけなのか、自分だけ何かもらうことに申し訳なさを感じているのか、本当に何もいらないのか。私が子供の彼らくらいの年だったら喜んでもらっていただ ろうな。

Urfaにはカトリック、正教徒、シーア派ムスリム、ハニフィ(スンニ派)ムスリム、ユダヤ教徒などあらゆる宗派の人を見ることができる。アラブ人も多く、クルド語にアラビア語、それからもちろんトルコ語などさまざまな言語が飛び交う。

私はクルド語をほとんど知らないが、物の数え方などアラビア語やペルシア語と同じなので店に行ったときなどは少し助かった^^
同じ 場所で違った人々を見ることができてなかなか面白い。


ここはアブラハムの生誕地とも言われている。アブラハムはキリスト教、ユダヤ教、イスラム教の三宗教に登場する預言者。

2012年9月16日

山の上のShirnak


ホストのMedyaShirnakを歩く。
同じトルコでも、今までの街とは全然違う。
Diyarbakirも他の場所と違って良かったが、ここはまたひと味違う。まず子供がとにかく多い。この辺では一夫多妻制を採用する家庭も多く、24人の奥さんと子供30人を抱える家族も。

当然、お父さんは子供の名前を全て覚えきれないので彼らの服装で自分の子供かどうか判断するそう。
トルコ政府はトルコ人にもっと子供を産め、と言っているのだそう。でないとトルコの人口の大多数をクルド人が占めることになってしまうから。


観光客が来るような場所でもないため、外国人を初めて見るという人も多い。
動物園のゾウかキリンにでもなった気分だ。歩いていても、車の中にいても、レストランで座っていても、通りすがる人に二度見三度見される。

じろじろと見てきては「チーニー!(中国人!)」と叫ぶ子供が(笑)。
「ジャポーニ」と訂正すると何故か決まって「ジャッキーチェン!」と言われる。いや、だから違うって・・笑


民家の中を歩いていると子供がぞろぞろとついて来た。
「日本人がいる」という噂はすぐ広まる。私を一目見ようと家から出て来る人や、窓から顔を覗かせる人も。
そしてどの家庭も「お茶飲んでって」と誘ってくれる。一体何軒の家でお茶(クルドティー)をいただいたか・・。

ぼろぼろの服装に穴の開いた靴を履いていても、彼らはとても幸せそうだ。笑顔で私を楽しませてくれる。お腹の痛みなど忘れてしまうくらい。


子供たちが話せる英語は決まって”Hello” “How are you?” “What is your name?”
とにかく「話したい」だけなので、私が答えても聞いていない。
そんなやり取りを何十回もした。でも彼らといると自然と笑顔になれるんだよね。不思議だ。

ちなみにトルコ警察もうろうろしている。
私を見て「日本人か?何しにきたんだ?」と聞いてきた。観光だ、というと怪しげな目で”Tamam(OK)”と。

夜は特に警察が多い。トルコ軍の航空機もたびたび頭上を通る。ここはイラク、シリアの国境と近いため、これらの国から山を登って違法入国してくる人がいないか見張っているのだそう。

翌日はまず病院へ。
腹痛と下痢が治まらないため・・。たまたまMedyaの友達がお医者さんで、タダで診てもらえることに。やっぱり「胃腸炎だ」と言われ、薬もらって飲んだら少しは回復^^

でもまだ食べ物は口に入らず・・。水に塩と砂糖とレモン汁を混ぜたものをずっと飲んでいました・・。


午後はShirnakから少し外れた村へ。
本当にここに人が住んでいるのかと疑ってしまうような、ぼろぼろの家もちらほら見かける。そしてここでもまた子供たちが集まってくる。

牛や馬、鶏にヤギなどの動物もその辺うろうろ。牛糞や馬糞がそこら中に。


学校に行けない子供たちもたくさんいる。
そんな子供たちがやがて都会に出て万引きや強盗などの罪を犯すようになる、とよくトルコ人の友達は言っていた。
でも背景はもっと複雑だ。以前トルコ政府がクルド人の住む村を攻撃し、多くの村人が犠牲になった。お金や仕事など、生活を奪われた彼らはやがて都市に出て、罪を犯すようになったと。一概に「クルド人は犯罪者だ」なんて言うべきじゃないなあ。

アンカラやイスタンブールの友達からたびたび「今どこにいるの?」と連絡が来たので「今Shirnakにいるよ」と言うと決まってみんな「クルド人は危険だから気をつけて」「何でそんな危ない場所にいるんだ、早くこっちにおいで」と言ってくる。

トルコ人の多くは本当に、何も知らないんだなあと。毎日のようにテレビで報道されるトルコ東部でのPKKとトルコ兵の銃撃戦やテロ。「危険」というイメージのみが彼らの頭に根付いてしまっている。こっちにきて現実を見てほしい。

「クルディスタン」という国を持つべきだと思うか、と何人かのクルド人に聞いてみたら色んな意見を聞けた。
「クルド人の中でも、イラク系クルド人、トルコ系クルド人、シリア系クルド人、イラン系クルド人など分かれていて、彼らの間でもまた対立している。その対立関係がなくなれば、クルディスタンという国を持ってもいいと思う」そう言っていたのはホストのMedya

「クルディスタンなんて国はいらない。トルコで十分だ。今僕は大学で勉強していて、親はいい仕事を持っている。何一つ不自由などない。これ以上何も求めるものなどないよ」とEmrah。もしクルディスタンという国が成立したら、彼はきっとトルコに逃げるだろう。

もしトルコから分離したら、一体どれくらいの人がクルディスタンに残るのだろうか。PKKがまともに政治を行えるように私は思えない。

そんなことを考えていたらまた激しい腹痛に襲われたのでこの日は夕方すぎにベッドへ。
何とか頑張って欲しいもんだ、私のお腹・・。

2012年9月14日

イラク領クルディスタンへ


翌日、朝起きるとお腹に異変が。激しい腹痛と下痢・・
これは後で分かったことなのだが、急性胃腸炎でした。

30分置きくらいにトイレに駆け込んでいた。この日は郊外へ散歩しにいこうと思っていたのだが、とてもじゃないが外出なんて無理だった。胃が突き刺すように痛む。
何が原因なのかも分からないのでどうしたらいいかも分からず。とりあえず寝ることに。

いくら寝ても具合は良くならない。食欲もなく、塩水をつくって飲んでいたが、水を飲んでもお腹が悲鳴をあげる。

夕方になって熱が38度出てきたので、バファリンを飲み、蒸しタオルで体を拭き、再び寝る。

翌日熱は治まったが、腹痛と下痢は相変わらず続く。
正露丸を飲んでも全く効果無し。疲労がたまっていたのかも知れない。
その日も一日家でゆっくり過ごした。

次の日(14日)、ようやくお腹の調子もよくなり、復活。
バス停へ向かい、イラク領クルディスタンへのバスに乗る。まあ治ったその日に移動するのも馬鹿だとは思うが、何しろじっとしてられない性格なので。バスの中で休もう、と。

バスで隣に座っていた女の子Medyaと会話。イラク領クルディスタンに行った後はぜひ私の家に来て、と言ってくれた。

彼女の家はShirnakという、国境近くの小さな街にある。


国境が近づくとトラックのながーーーい列が。
10kmはあったと思う。運転手が気の毒だ。彼らは地べたにシートを敷き、他の運転手たちとお茶を飲んだり、昼寝したりしていた。
1ヶ月以上待たされることもあるのだとか・・。

ようやく国境に到着。トルコ出国は特に問題なく通過。

続いてイラク領クルディスタン入国。入国手続きカウンターにパスポートを預ける。5分ほど待ったところで”Miss Suzuki”と名前を呼ばれる。
「ビザは?」と聞かれたので「日本人はいらない」と答えると「誰が言ったんだ」と。「ネットで調べたらいらないと書いてあったが・・」と言うと「去年まではそうだった。だが今年から違うんだよ」と。

まじか。でも頼む、入国させてくれ・・。

「何とかならないか。ただの観光だから」というと「ちょっと待って、電話して聞いてみる」と言われ、10分ほど待つ。
だが返事はノーだった。「やっぱり無理みたいだ、ごめんよ。イスタンブールかアンカラに行けば取れるから。友達がいるならインビテーションレター発行してもらえば簡単だよ」と。
もう何言っても無理だろう。

別の警察が車でトルコ入国局まで乗せていってくれ、再びトルコ入国。
来た道をまた戻るって悔しいね。まあ、こういうこともあります。。

すごくすごく楽しみだっただけに悔しさは半端ないが・・。アンカラかイスタンブールで取れたら行こう。

トルコ入国前、イラク領クルディスタンの兵士らに話しかけてみた。クルド語で「スパース」(ありがとう)と礼を言うと満面の笑みで「クルド語をしゃべれるのか!」と。
私が知っているクルド語はスパースだけなのだけど・・。明るくて良い人たちだったなあ。

さてトルコ入国。また厳重なチェック。
パスポートを見たトルコ警察が、色々と質問してきた。バックパックの中身も久しぶりにチェックされた。
「武器、大麻、アルコールなどはあるか」 「ノー」
「ここで何をしている?」 「観光」
「イラクで観光?職業は?」 「学生、入国してないよ」
そんな質問を複数の人からされた。まあ普通は観光客なんて来ない場所だし、怪しむのは当然だ。仕方ない。


チグリス川と夕焼け。国境にて。

帰りはイラク領クルディスタン側の入国局が用意してくれたタクシーで。
さて、どこに行こう・・。と、ふとバスで会ったMedyaのことを思い出した。

Shirnakはここから1時間ほど。彼女に電話してみると、おいで、と言ってくれた。タクシーの運転手にCizreまで乗せていってもらう。

Medyaのいとこが迎えに来てくれて、まずは彼らの家へ。
夕ご飯をごちそうになり、その後バスでShirnakへ向かう。Shirnakは山の上の小さな街。この日は街全体で停電していて、辺りは真っ暗。

無事Medyaに会え、彼女の家へ。

長い一日だったなあ。
夜、ベランダから流れ星が見えた。とその次の瞬間どこからか銃声音が。トルコ兵か、PKKか、ホストもどちらか分からないと言っていた。銃を置いて、一度星を眺めてごらんよ。こんな綺麗なのにー。

そしてこのあと、また腹痛に襲われました・・。